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佐々木明里FB

自分で選択する覚悟

思えば、私は小学校のころから、
「自分で人生を選択する」に向き合ってきたのだと昨日気づきました。
(セラピー始めてからと思ってたけど、もっと前からだった!)

自分の人生の選択は、自分でしている、と認めることは、
ときに残酷でもある、と思います。



不登校というのは、
私にとっては、選ぶというその「責任」の崖っぷちに立たされるようなものでもあったの。

学校へ行かないという選択。

そこへ行くまでも、
そこへ行ってからも、
たくさんの、葛藤があった。



不登校はじめのころ、私は学校に「行けない」という表現をしていたんだ。

だって、実際にそうだったから。
初めて学校に行けなくなった日のことは、今も覚えてる。
学校へ行こうとして、歩き出そうとするのに、足が動かなくなる。

家の一番近くの交差点が、ものすごい大きな壁だった。
そこから先に進めない。
自分の意思で身体が動かない戸惑いと、
どうしよう、という感覚は、強烈だったんだ。

「自分は、学校に行きたくないんだ」と、認めたくなかったのかもしれない。
「なんかわからないけど、学校に行けない」と、納得しようとしたんだと思う。

その後、何度か「行く」「行かない」は繰り返したけれど、

ある日行けなくなる、その感覚はやっぱり「身体が、ストップをかけているみたい」だった。

自分の意思じゃない・・・と、思いたかった。



「学校は行かなきゃ」と思っていたから。
「行きたくないなんて、不真面目なこと思っちゃいけない」と思っていたから。
(真面目だったのです。笑)


だけど、
あるときから「私は学校に行かない」と表現するようになった。


行かないという選択をすること。
自分でそう言い切ること。

それって、ものすごく勇気がいることだったよ。



自分は逃げているんじゃないか。
ただの怠け者なんじゃないか。
「行かないことにしたんだ」なんて、自分を正当化しようとしているだけ?

「行かない事を選ぶ」と言いながらも、
いつもぐるぐるしていた。

その選択に、責任をもてるのかなんて、わからなかったから。
その選択にある種の誇りを持ってもいたけど、
でも、自分が正しいなんて自信はないし、
ちゃんと何とかなるのかも、わからなかった。

将来への不安って、とても大きかったんだよ。

学校に行かない選択って、
「自分の将来」をある程度決定してしまうものでもあったから。

もう、「普通」からは外れてしまった。
ドロップアウトした人間だ。

自分の性格考えても、会社勤めとか、就職は無理だろうな。
でも、じゃあどうやって生活していけばいいんだろう。


だからこそ、書道を頑張ったりもしたんだ。
手に職をつけることで、生きていくしかないと思ったから。

いろんな思いがめぐる。
不安も、焦りも、自己否定や罪悪感も。


「行かないことを選択する」という言葉は、
それでも自分の人生を何とかしなければ、という決意でもあった。

100パーセント自分の意思だとは、思えない部分もあったけどね。
どこかでそうやって言い訳はしたかったけど。笑

身体がストップかけるんだ。って。

でもそれもさ、あるレベルではちゃんと「私の選択」なんだ。
どこかでは、自分でそれを望んでそうしているのだということを、
認めていったんだと思う。


自分でもわかるようにはなってきてたの。
頑張りすぎるから、プツンと切れちゃうんだ、
これ以上頑張ると自分がもたないから、

私の身体が、その選択をするんだ、って。
学校に行こうとしても、身体を動かさないでいるという、ね。


「私が選んだこと」ではあるんだ。



残酷。

残酷ではあったよ、当時の私にとっては。
それしか選びようがないけど、自分の意思でそれを選んでいるんだ、と認めることだったし。
(だって、頑張ったところで身体が動かないから)



でも。だからこそ、私は自由だったのだと思う。



私は何を選ぶか。
どうしたいか。

学校に行かない。その上で、何を選ぶか。
何ができるか。
今、何をするか。


それを自分で決めなきゃいけないって、
ものすごいプレッシャーでもあったし、
怖かったし、
いつも不安だった。
(どうなるかなんてわからないのに!)



だけど、だけど、

「私が、選べるんだ」



そこから、道が広がっていったのだと思う。



私の人生は私が左右する。




レールに乗ることは拒否しようという決意も、
そのころにはあったの。

だって、レールを外れてみるということは、

そうじゃない選択肢を見つけることでもあったんだよ。


可能性も、感じてたんだよ。
レールを外れたところから見える世界というのはあるの。
レールに乗っているときは気づかないけど、
ちゃんと、存在しているんだよ。


「これじゃない世界」なんて、本当はいくらでもある。
いや、当時は「あってほしい」という切望だったか。笑

それでも、
「世界はきっと、もっと広いし、他の選択肢もあるはずだ」というのは、
私にとっては確信だった。




「選ぶ」という地点に立つとき、
それが見えてくる。


自分に対する責任を負うということ。
意思を持つということ。

私は私で生きていく、というのは、
「私の人生の選択は私がする」という、覚悟に他ならないのだと思う。



保証もないけど、
正解もないけど、
どうしたらいいのかわからないだらけかもだけど、

自分で選ぶしかない。
その一瞬一瞬の選択と、向き合い続けるしかない。

でも、そこに立ってやっと、
すべての可能性が広がる。


もともと、全部自分で選んでいるんだけどね。
もともと自分で「それをする」と選択しなければ、
何もできないんだけどね。
(足を動かすのも、口を開くのも)


だから違いは、
「決意」が、あるかないかだと思うんだ。


 

だけど、その残酷な選択のあとにあるのは、
自分の思っているより、
広くてやさしい世界なのだと、


私は知っているよ。


怖いのはむしろレールの中にいるときで、

抜け出てみると、そこに冒険という新たな喜びがあるのも、
確かなことなんだ。

 

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